東アフリカ・ルワンダに行ってました。
いつものごはんネタではないのですが、しばらくおつきあいください。
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ルワンダ航空でドバイ→ケニアを飛んだので、首都キガリ空港で半日トランジット時間があった。
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日本人は入国にはビザが必要。オンラインで申請して、受付番号をイミグレに持参すれば取れる。

出発前、自宅のPCでビザ申請にトライしたがうまくいかず、ビザ無しで現地のイミグレでいったんは入国不可となったが、同行者が94年の虐殺にまつわる建物を見たいとアピールしたところ、OKが出た。賄賂の申し出は断られた。
「それはこの国の流儀ではない」とのこと。

ルワンダは別名ミル・コリン(千の丘という意味)という通り、なだらかな丘が連なっている。
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四国くらいのサイズの国土に1千万人の人口が密集しているので、丘の上まで家が多くあった。
人口密度はアフリカで最も高いらしい。

首都キガリ空港でタクシーをチャーター、キガリ郊外のニャマタの教会、ンタラマの教会、キガリ市内の虐殺博物館、ホテル・ミルコリンズと回ってもらった。
ホテル・ミルコリンズは映画「ホテル・ルワンダ」の舞台として有名になった。

ニャマタの教会。
94年の虐殺のときは、ここに逃げ込んだ多くの人たちが犠牲になった。おびただしい犠牲者の朽ちた洋服が教会に積まれており、殺害に使用された錆びたマチエーテ(鉈)もあった。
地下の納骨堂には、200体以上の、整然と並べられた頭蓋骨と大腿骨が。
通常であれば一人用の棺桶に、家族8人、9人分の遺骨が納められているものもあり、そこで無理やり断ち切られた彼らの人生を考えずにはいられなかった。

ニャマタの教会では、ちょうど、案内してくれるボランティアが不在で、私たちのタクシーの運転手が説明してくれた。運転手さんがなぜ案内を?と思ったら、その28歳の運転手さんは、20年前にルワンダ虐殺から逃れて生き延びることができた、まさに当事者の一人だった。

虐殺が行われていた2ヶ月間、8歳の彼とその家族は、虐殺者たちが朝から夜まで規則正しく町にやってくる裏をかいて、朝から夜までパピルスの沼地に潜んでいたそうだ。パピルスは人間が隠れるくらいの高さがある。その数ヶ月間の食事は、イモ類を料理しないで齧ってしのいだのだという。

ニャマタの教会で、彼は、
「本当はここには来たくなかった」
と涙を浮かべながら、建物の中を説明してくれた。
彼はあくまでもタクシーの運転手で、中を案内する義務は全くない。それなのに一緒に教会に入り説明してくれたのは、彼の使命感だったのだろうか、と思う。
1日の来場者数は5組ほどしかいないようだ。

ンタラマの教会。
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中はとても撮影する気にならなかった。
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こちらにもおびただしい犠牲者の衣服の山と、整然と並べられた頭蓋骨。教会には祈りでひざまずくための高さ15cmくらいの台が何列も並んでいるが、その、祈りのための台に、亡くなった人の棺や衣服が積み上げられている。頭蓋骨は、片手に載りそうな小さいものもあった。

建物の穴は、助けを求めて逃げた住民たちをこの建物に封じ込めたあと、壁に穴を開けて銃撃した跡だと聞いた。58年の暴動の際は、住民たちは教会に逃れて助かったといい、今回も、教会に行けば助かる…と考えたのだそうだ。
教会の横には小さな建物があり、学校だったようだ。壁には、血の跡がまだ残っていた。

最後に、映画「ホテル・ルワンダ」の舞台となったホテル・ミル・コリンズへ。
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ケンピンスキーホテルチェーンになっていたが、中は往時のままとのこと。プールでは子供が水遊びに興じていた。アフリカ系のお客さんも多くいた。

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ちなみに現在のルワンダの治安は良いです。カガメ政権のおかげというべきか。その復興ぶりはアフリカのシンガポールと言われているそうで、日曜日だったからか、新しく色鮮やかな外出用の衣服で歩く人を多く見ました。人々の表情が比較的明るかったのが印象的でした。でも、何か殊更な虚無的な明るさを感じてしまうのは、考えすぎでしょうか。

参考書籍
「隣人が殺人者に変わる時―ルワンダ・ジェノサイド 加害者編」(かもがわ出版)

「隣人が殺人者に変わる時―ルワンダ・ジェノサイド 生存者たちの証言」


「なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか―PKO司令官の手記」(風行社)